日本ではモータリゼーションが始まる前の昭和の時代、1960年頃からラリーを開催し、JMCという組織を率いて1977年までにアルペンラリーをメインとして多くの地方競技ラリーを開催し、延べ289回のラリー(ラリー講習会を含む)を開催したのが渋谷道尚(しぶやみちたか)氏で、その延べ走行距離は地球を26周に相当する100万キロである。まさにラリーの神様のような人である。
ラリーの主催者(オーガナイザー)と参加者は余りに密接でもいけないというような不文律があるような気がして、筆者がラリーに出場していたころには努めて主催者や競技長とは接触しなかった。主催者はコース設定について言えない部分があるし、競技に参加する者が変に親しくしているように第三者から見えても具合が悪い。そういう点では主催者(競技長)も同じ立場であった。
渋谷氏は大型免許などいろいろな運転免許を持っており、運転技能が優れていたので日刊自動車新聞では重宝がられ、新車のコマーシャルの撮影や試走会に行ったりした。
1958年に読売新聞社が日本一周ラリーを開催し、そのときの競技長を務められたのが野口正一氏である。その翌年1959年に日刊自動車新聞の木村正文社長がJMC(日本モータリスト・クラブ) を設立し、野口正一氏とともに3月22日にJMC第1回関東地区ラリーを開催した。
●JMC第1回関東地区ラリー
5月の試走の後、第1回のアルペンラリーをその年の7月に開催することになり、地区ラリーの開催と並行してアルペンラリーの準備をしたが、準備期間が短く大変だったという。
念のために国道の舗装率のデータを示すと、当時の舗装状況は極めて悪く、昭和40年では1級国道(1桁と2桁ナンバーの国道)の舗装率は約50%であり、都道府県道はわずか14%の舗装率だった。
コースの設定においては当時は良いロードマップが無くて、国土地理院の5万分の1の地図や武揚堂の地図を使用したが、コースを探すためには片っ端からめぼしい道に入り、通り抜けられるかどうか実際に確認した。
このようにして作られたコマ地図は当時はガリ版(謄写版)というもので印刷された。ガリ版というのは細かいヤスリ板の上に油紙を置き、鉄筆で文字や図を書くとヤスリの目で油紙に細かい穴が開くので、その上をインクをつけたローラーで擦ると穴からインクが滲み出て下に敷いた紙に印刷されるという方法(ステンシルともいう)であり、その謄写版の原理を利用したのがひところ流行ったプリントゴッコである。
●1972年第1回JMC東京ラリーの指示書の表紙
●JMCラリーのゴマ地図の例
画像はJMCラリーのゴマ地図の例であるが、わかりやすく目標物を記載して、道路の微妙なカーブも正しく表現されていることに注目。
他のラリーが道路を実線で示していたのに対してJMCラリーにおいては道幅も正しく表現されていたことは特筆に値する。
試走において記録をきっちりつけるためには、悪路を飛ばして走るので、その衝撃で用紙を挟んだバインダーもどこへ跳んでいくかわからないのでしっかり固定していないといけないし、筆記用具やストップウォッチもしっかり確保しておく必要があるので、悪路での運転とともに地図を調べ、記録するという作業を繰り返すのは大変なハードワークである。しかも試走とはいえ速度を落としているのではなく、実戦と同じ速度、つまり指示速度で試走している。
また、本番のラリー当日は先頭車(先導車)としてコースに異常はないか、急な通行止め区間はないか、などを確認しながら走行した。
渋谷氏は車をほとんど壊したことが無いとのことだが、それでもどうにもならないようなトラブルは無かったのですか、と尋ねると、亀の子になったようなスタックは経験しているが、スタックしないように悪路では慎重に走り、危険なところは事前に車を止めて降りて状況を調べてから走行したが、酷い泥濘地で半日ほど待ってようやく通りかった車に助けられたこともある、という。車も通らぬような山間部の悪路では携帯電話も無かった時代では待つしか方法がなかったのだろうが、慎重に走り、スタックするような状況にならないというのは見習うべきテクニックである。
試走車は特別な仕様や装備だったかと尋ねたところ、当初は全くノーマルで無改造で距離計も車両のものを使い、光の加減でメーターの文字が読みにくいときには名刺をかざして光を反射させて数字を読み取るような工夫をしたという。
他に大変だったのは警察に申請して道路の使用許可を取る手続きで、詳しいルートなどを書類に詳細に記載して申請書を作成し、関係するすべての県警に提出し、許可を得なければならないことだった。
また、渋谷氏は森本哲氏の著述した「ラリー教室」という単行本の監修もしており、土屋書店から出版されているが今は絶版で入手できないのが残念である。
渋谷道尚氏の名前はみちたかと読むが、「道」の次の「尚」という文字は、「重んじる」「尊ぶ」という意味があり、また、「尚続ける」「もっと」「いよいよ」「どんどん」「更に」「一層」などの意味がある。
筆者がラリーを離れてから主催者(競技長)であった渋谷氏には遠慮なく裏話も尋ねることができるし、本音も聴けるようになった。
以下は渋谷氏にインタビューした中から興味のある点をピックアップして構成したものである。
渋谷道尚(しぶやみちたか)氏は7人兄弟の末っ子(五男)として1935年に広島で生まれ、府中高校を卒業後、神奈川大学に入学した。大学時代はクラリネットの演奏のアルバイトをしたり、大型免許を取得してダンプカーを運転するアルバイトなどを経験して当時から多彩な能力を発揮している。
思うところがあり神奈川大学から中央大学国文学科に入りなおし1960年中央大学を卒業。中央大学在籍中から日刊自動車新聞でアルバイトをしていた関係で、卒業したら迷うことなく日刊自動車新聞に入社。
いすず自動車のヒルマンのエコノミーランの主催を終えたのち、後に渋谷氏の師匠になる野口正一氏とJMCの事務局長の荒牧正之氏(旧姓谷)とともに平湯峠・乗鞍を走り、長距離山岳ドライブの面白さに目覚めた。
当時の乗鞍は原始林の様相で、渋谷氏が行ったのは5月中旬だったが雪が積もっており、頂上まであとどれくらいあるのか、と何度も尋ねたほど長い道程だった、という。エンジンの吹け上がりが悪くなり、気圧の関係で気化器に行く圧が下がりパワーも落ちるのだというと、君、よくわかったね、なかなか筋が良い、と先輩から褒められた、というエピソードがある。頂上に着くと山小屋のストープが赤く燃えているのが見えた。スボンとシートは悪路を走行したために擦り切れた。
これをはじめとして、その後ラリーの試走で乗鞍に登った回数は約170回で、台風の乗鞍、満天星の乗鞍、豪雨の乗鞍、濃霧の乗鞍とあらゆる状態の乗鞍を知っている。乗鞍に限らず日本の山岳部の道路は全部走破したという何人にも真似のできないことをしてきた人だ。
コースは東京と河口湖間で337台が参加している。
日本でモータリゼーションが始まる前の1959年に300台以上の参加があったということは驚くべきことである。
この内容はJMCグラフ 1959年5月号 Vol.1 No.1に掲載されている。
同年5月および6月には同様の地区ラリーが関西地区、中京地区、東北地区で開催された。
地区ラリーは150〜300キロの規模のデイ・ラリーだったが、ラリーの楽しさを知るには適当なコースだった。
試走車は初代の観音開きのドアのクラウンを使用して3人で試走した。
当初は4台でコンボイで試走した。試走車としては、クラウン、ウィリスのジープ、ヒルマンなどを使用した。
第4回あたりのアルペンラリーから野口氏に代わりが渋谷氏がメインになって試走するようになった。
ラリーのコース作りの試走は大体1日300から350キロ走行した。
1日300キロというとたいした距離でないように思われるが、高速道路が無い時代に、しかも舗装されていない悪路ばかりを1日300キロ走るのは相当にキツイ。現在でも高速道路を使用しないで300キロ走行するとだいたい8〜9時間かかる。
恐らく当時は1日で悪路を300キロ走るために12時間以上はかかったのではないかと思われる。渋谷氏はハンドルを握っていないときは寝ていた、寝ていないときはハンドルを握っていたと語っている。
ということはラリーのメインとなる山岳部などはすべて悪路であったわけで、大きな凸凹があって水溜りがあるような道路、砂利を入れて補修してある道路では轍が出来ていたりした。特に通行量の少ない山岳路では赤ん坊の頭くらいの石がゴロゴロしている路面や、岩盤の表面が路面に露出しているような道路もあり、泥濘にハマって動きが取れなくなる悪路もあった。
非常によくメンテナンスされた砂利道では砂利が浮石となって滑りやすく、氷の上を走るような慎重さが要求された。
いずれにしても舗装のされていない路面では天気が良ければ猛烈な砂ホコリに悩まされ、雨が降れば水溜りと泥濘にタイヤを取られてスタックする危険性が非常に高かった。
ラリーにおけるルートマップ(コマ地図)はまさにラリーでは一番重要なものなので、その作成は、非常に注意を払っておこなった。
交差点の手前の一定の場所で角度をつけないで車を素直に止め、その位置から見て目印となる不動のものを3つ記録した。
素直な位置に車を止めないと、目印となる目標物が見えなかったり、目につき難かったりするので、道路の向きと車体の向きを揃えて目標物を特定して記録した。特に夜間はライトの照らす範囲も限られるので、それも考慮して目印を選択した。
不動とは、目印になるもので移動させたり、変更されることのないようなものを意味し、駅や交番、郵便ポストなどは通常その位置は不動であるが、看板や商店などを目印にすると店の名前が変わっていたり、建てかえられていたりする可能性があるので、目印を3点記録したのである。
コマ地図を記録するときは、事前に交差点の図を書きやすいように点線で交差点を書いた用紙を準備して素早く記録できるようにした。原則的にはひとつの交差点を1枚の紙に記録した。
そしてストップウォッチで区間の走行時間と距離を記録し、次の地点に向かって試走を再開した。
JMCのコマ地図はすべて同じ謄写版の業者にて原版が作られ、地図の道路の角度や目標などが、渋谷氏の原稿通りに忠実に再現された。特にJMCのコマ地図の正確度は非常に高く、コマ地図を信頼してコースを走ることができたのもJMCラリーの信用を高める大きな要素だった。
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コマ地図は非常に要領良く記載されており、2000キロ近く走行した第8回のアルペンラリーを例にすると用紙にして7枚、コマ地図として第1ステージ69+第2ステージ45、つまり114のコマ地図で2000キロ近いコースを正しく示している。
このような路面でのハードな試走を渋谷氏は1回のラリーについて平均3回ほどやっている。試走は最初は3名とか2名でやっていたが、試走のペースの問題や、複数だと面倒なこともあり、独りで試走するようになった。
特にコース設定においてはラリーを楽しめるようなコース設定を考えルートを選んだが、これは全国の山岳地帯の道路を知り尽くした渋谷氏でこそ可能であったと言える。
この先導車のドライバーは渋谷氏が独りで務めた。長いラリーは2000キロに及ぶ長距離を独りで運転するということは体力的にも凄いことである。渋谷氏はタフで体格に恵まれていたのでこのハードなコース設定と先導車のドライビングが出来たのだろう。
悪路をノンストップで300キロも走ると、普通の人なら身体は全身マッサージをかけたような具合で筋肉がヘトヘトになり、車から降りると足元がヨロヨロとするくらいで、すぐにシャンとして歩けないくらいハードなものであった。
このようなハードなドライビングを渋谷氏は年間8万キロこなし、多い年では11万7000〜8000キロの悪路を走行している。
身体がタフでないと務まらないが、車両もタフでないと耐えられない。
当時のハードなラリーはある意味での車の耐久レースであったとも言えるし、体力的にもマラソンやクロスカントリーに等しかった。
車両にも強いストレスが掛かり、サスペンションのダメージやマフラーのステーが折れるのは日常茶飯事で、実際にアルペンラリーに出場した車両などは無事完走しても車体に歪みが出たりしてラリーのあとに廃車になったものもあり、いかにハードか想像できると思う。
しかしながら渋谷氏は車を壊した(壊れた)経験はほとんど無い、という。リーフスプリグが折れたことがある程度だという。というのは悪路を運転することを繰り返しているうちにアクセル操作で荷重移動を上手くやり、車を壊さないように心がけるようになった、というし、またタイヤの破損にも注意し、サイドカットしないよう特に濡れた路面では注意して走行した、というように細心の注意を払って運転しているからである。
悪路の運転技術については渋谷氏を上回る人は日本人ではいないのではないかと思う。悪路で車を壊さず速く走るには注意深くアクセル操作をして荷重移動を上手く利用するのが鍵という言葉は深い意味をもっており、運転技術を上げるためにはこの点をマスターする必要がある。
トリップメーターは後に大森(Omori)やハルダ(HALDA)を使用した。
大森(Omori)は昔戦車用の計器を製作していた会社で、トリップメーターは頑丈な作りで信頼できる製品だった。大森はその他に油圧計、油温計、などしっかりした作りの各種メーターで有名なメーカーであったが、数年前に倒産したようで残念である。
車両そのものは基本的にノーマルで、クラウンの他にパブリカやスカイラインなどを使用した。狭い山道を試走して行き止まりだったときに方向転換するスペースもなく、長い距離をバックしなければならなかったが、バックライトが暗くて後ろが見えず、ブレーキを踏みながらブレーキライトの明かりを頼りに少しずつ苦労してバックした経験からバックライトは追加して装着したが、基本的にノーマル車で試走した。のちにはファクトリーの車両が試走用に提供されたこともある、という。
また、ラリー・コースの秘密保持には細心の注意を払った。試走車がどこを走っていた、と噂されたり、今日はどちら方面に試走に行くのかと追跡されそうになったこともある、という。
ラリーのチェックシートの不正事件があり、その後チェックシートの偽造が出来ないように複写式のシートを使用するようになった。
いろいろな苦労があったが、これらの300回近く開催されたJMCラリーについてはルートマップをはじめ写真や出版物などがきちんと整理されて渋谷氏のもとで保管されている。
渋谷氏はJMCラリーを開催してきた18年間は寝ている以外はハンドルを持って走っていた生活で、よくも病気にもならずに休まずに動けたものだと自分で自分を褒め称えたいくらいだと述懐している。
渋谷氏は現在も日本自動車連盟(JAF)全日本ラリー選手権審査委員会で委員長を務めるなど活躍中である。
どんどん道を突き進む、さらに長い道程を思わせる「道尚」という名前は、渋谷氏をラリーの神様にする宿命だったような気がする。
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