1965年(昭和40年)11月3日〜6日
奥飛騨地方の大地震でラリーコースがズタズタになり、さらに例年の9月開催が台風の影響で11月に延期され、乗鞍では
●コース 東京(神宮外苑)〜飯能〜小川町〜秩父〜富岡〜佐久〜長門町〜塩尻〜伊那〜飯田〜薮原〜乗鞍岳〜平湯温泉
●距離 約1800km
●概略
●参加台数 43台
【総合噸位】
●積雪の乗鞍岳に苦労する参加者
●積雪の乗鞍を走る五十嵐・五十嵐組のホンダ・スポーツ
【再録、アルペンーこぽれ話】
給油所で甘酒のサービスも
前代未聞!スタート直後に故障
気合の入った関西勢
雪に見舞われた。
アルペン史上初の女性チームとして中村裕子チームが参加し、19位にくい込み、男性ドライバーをアッといわせた。
優勝した杉山チームのナビ、飯塚勝洋氏は競技途中、落石のため病院で7針も縫う治療を受けながらも根性で走りきった。
(第1〜2日日ゴール)〜松本〜小諸〜長野原〜須坂〜松代〜六日町〜小千谷〜長岡〜直江津〜長野〜上田〜小諸〜佐久〜
野辺山〜韮崎〜甲府〜八王子〜東京
l〜2日目 このレース最大のヤマ場となったのは、積雪5、6センチの乗鞍岳。
各車ともスリップを防ぐためスノータイヤに換えたり、チェーンを巻くなどして全員無事に走り抜けた。
3〜4日目 小雨とモヤの中、平湯を出発。松本を通って第2のヤマ場、美ヶ原へ。ここは晴れていたが、山頂付近は
強風が吹き荒れ、各車ともハンドルをとられ、さらに落石で道路補修個所が続くなど苦戦を強いられた。3日目は徹夜で
走るものの4日目午前5時ころ妙高パークホテルに到着し3時間の休憩。4日目午後5時過ぎに東京・神宮外苑にゴールインした。
優勝 杉山英夫、飯塚勝洋、佐藤彰昌(スカイライン)
2・向井久夫、下司泰隆、本間久喜(ベレット)
3・森西栄一、宝神正明(ブルーバード)
4・黒田光彦、岩田文弥、神田忠彦(スカイライン)
5・松井英男、萩原壮亮、木全 巌(セドリック)
6・高木智雄、片倉八郎、吉田正三郎(ファミリア)
7・甲田政之、村野賢次、順丼薫和(コロナ)
8・梅本修司、水野芳昭(パプリカ)
9・柚木俊彦、水野和躬(トヨタスポーツ)
10・遠藤洋治、久保井紀昭、中島徹也(パプリカ)
11・小池敏郎、末積 実、末積 正(スカイライン)
12・朝倉興二、藤村武司、杉浦幹男(ブルーバード)
13・佐藤武志、岸 一美(ホンダS)
14・首藤 浩、鮫島 滋(コンテッサ)
15・浅香泰祐、木戸芳治、伊勢本充、奥村 肇(クラウン)
16・森 義和、山崎正利、藤井(スカイライン)
17・薦岡玲子、井上孝夫、山本 徳(ワーゲン)
18・中村信顕、山本洋一、山内太郎(スカイライン)
19・中村祐子、中村ヒサキ、八鍬宣子(ブルーバード)
20・田中一堆、榊原昌次(スカイライン)
21・戸田 裕、戸田 稔(スカイライン)
22・島谷陽一郎、大野繁弥(コロナ)
23・山田耕一、浅見貞幸、小林孝司(スカイライン)
24・沢村 勝、本郷昭男、瀬下幹弘(グロリア)
25・越田 穆、勝田貞夫、広瀬政夫(ブルーバード)
26・馬場文利、小川原禎一(スカイライン)
27・宇田川武良、石山恵一郎、佐藤嘉次朗(ブルーバード)
28・村田秀夫、宮崎文男(ブルーバード)
【完走】
・清水正義、伊東一義、佐野文彦(クラウン)
・中村治人、鍵政紘一・大橋喜美、従野年己(クラウン)
・斉藤和夫、亀沢弘海(スカイライン)
・茂手木浅代、松原功卓(クラウン)
・湯浅 謙、田中新二、佐野直躬(クラウン)
・米田 興、佐藤忠一、桑木行善(コンテッサ)
・玉木新一、近藤美智子、加藤恒蔵(クラウン)
・江頭泰彦、三輪靖二、溝口舜介(グロリア)
・矢口 滋、小沢幸雄(ワーゲン)
【リタイア】
・五十嵐信吉、五十嵐恒介(ホンダS)
・野崎純一郎、大塚和子(クラウン)
・歌原義和、北原 孝(ベレット)
・菅原清次、成瀬正次、和田英一(ブルーバード)
・阿部方規、金森 靖、中山謙一(ベルリーナ)
・加藤栄一、宍戸俊堆(コンテッサ)
今回のアルペンラリーは4日間のうち旅館泊が1回だけ。それだけに、夜間走行も2晩となった。参加者も大変だが、
競技を円滑にすすめながらの給油サービスのスタンドも大変。
今回は東亜石油のスタンドが推薦され、真夜中でもいたれりつくせりのサービスで給油できたのは大きな原動力だった。
各スタンドは湯茶の接待、休憩場の提供と歓迎してくれて慰められたが、なかでも諏訪のスタンドは甘酒とおしんこの
サービス。休息のための駐車場も用意。
立て看板はもとより、ちょうちんでスタンドをかざっての大歓待。走りつづけて渇ききった喉に、甘酒とおしんこは
何にも勝る活力剤でもあると大好評だった。(モータリストスポーツNo.32 1965年12月1日)
故障車といえばいろいろあったが、中でもヒドイのは、KSCCチームのベルリーナ。東京をスタートの一瞬、ゴウンと
鈍い異音を発して3mほど動いてストップ。リアアクスルが折れたためという気の毒な事態。すぐ東京ダイハツの協力で
修理したが3時間の遅れ。それでもコースを変えて合流を狙って走った。
結局失格を知らされ棄権したが、アルペン出場歴6回目というチーム・キャップの阿部さんだけのことはあると感心しきり。
それにしてもスタート時の故障という記録は、ちょっと聞いたことがない出来事だったようで、不運の極みではある。
(モータリストスポーツNo.32 1965年12月1日)
アルペン出場者はみんな自動車気違い? というのが定説になっているが、なかでも熱心なのが関西勢。
ハチマキをきりっとしめ 「家族の病気をホックラかしての出場、なにがなんでも勝ちますヨ」と怪気炎。
なかには金田(正一)投手ばりに 「ヤツタルデー」を連発するチームもあり、数こそ十分の一だったが、闘志では完全に
関東勢を圧倒していた。(モータリストスポーツNo.32 1965年12月1日)
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