1963年(昭和38年)9月21日〜24日
鈴鹿で第1回日本グランプリが開催されたこの年は、アルペンにも各メーカーが力を入れ始めた。特にトヨタのパプリカと
●コース 東京(神宮外苑)〜大宮〜熊谷〜高崎〜前橋〜渋川〜沼田〜三国峠〜十日町〜飯山〜関山温泉(第1日ゴール)
●距離 約1100km
●概略
●参加台数 53台
【総合順位】
●二位に入賞した原・佐藤組のブルーバード310
●チェッカーフラッグを受ける松井・田中組のブルーバード310
●井上・渡辺組のブルーバード310
●チェッカーフラッグを受ける菅原・菅原組の初代セドリック
●吉田・西塚チームの62年式コロナ
●山岡・堤チームの62年式ヒルマンミンクス
●宮園・石橋チームのコンテッサ
●中里父娘チームのメッサーシュミット
●山内・石井チームの58年式ダットサン
●空冷エンジンを搭載した初代パブリカで参加した浜畑・村松チーム
●阿部・金森チームの初代クラウン
【再録、アルペンこぼれ話】
アルペン・ムード花ざかり
「ヤイヤイ、ガンパレ」
日産のブルーバードの対抗意識は凄まじかった。競技内容も本格化の様相を呈し、計算機を積んだ車が登場したのも
この年からだ。
〜長野〜更埴〜松本〜塩尻〜鳥居峠〜安房峠〜平湯温泉(第2日ゴール)〜高山〜八幡〜下呂温泉(第3日ゴール)〜
金山〜土岐〜多治見〜瀬戸〜蒲郡
・第1日目 国道の各所で渋滞発生。このロスタイムを挽回するため各車とも猛烈なダッシュをみせ、ついに
「レース車はダンプよりこわい」といわれるほどに。
事実、三国峠〜八箇峠あたりでは、ダンプが小さく?なって道端に避難していた。また、野尻湖〜関山間では延々と
続いた自衛隊の車に出会い、一方通行で20〜30分も待たされた。
・第2日目 第3CPの風越峠付近で十数台がミスコース。コース案内図と類以した地点にひっかかって第2CPから第4CPに
向かってしまった。松本市の給油所からわざわざ1時間もかけて逆行した車もあった。
当日のゴールも不明で、頼りは部分部分の案内図だけ。迷子の車も出て、この日の滅点が一番大きかった。
・第3日日 アルペンラリー最大の呼び物の乗鞍岳登頂が、頂上付近の積雪で中止になった。そのため、この日は
比較的楽なコースのみになった。高山市付近の舗装道路を中心にエンエンと指示速度がなんと21・0`。
迷子車もはとんどがこの速度のおかげで挽回し、成績は4日間のうち最高となった。
・第4日日 ラリー最終日でもあり、のんびりとしたアルペン・ムードがただよい、入賞見込みなしの気安さか
リヤウインドーに「?」をテープでかたちどった車も出現。中には「ジャスト・マリッド」を掲げた車もあり、
ゴールの蒲郡へ。
優勝 大竹滋之・蒲原組(パプリカ)
2・原 武利・佐藤 満組(ブルーバード)
3・小林博司・佐々木組(セドリック)
4・三井・天川組(ブルーバード)
5・松井・田中組(ブルーバード)
6・大林・御袋組(コロナ)
7・前川・寺沢組(プリンス)
8・井口・長瀬組(ブルーバード)
9・奥山・奥山組(プリンス)
9・越朗・小池組(ブルーバード)
・柚木・村田組(パプリカ)
・浜畑・村松組(パプリカ)
・宇田川・立石組(ブルーバード)
・小関・高橋組(スバル450)
・加藤・小島組(コンテッサ)
・戸田・戸田組(パプリカ)
・東国・稲生組(ヒルマン)
・小室・竹内組(ブルーバード)
・菅原・菅原組(セドリック)
・山内・石井組(ダットサン)
・村上・黒田組(プリンス)
・伊藤・西村組(コロナ)
・大山・荒井組(セドリック)
・竹下・西川組(ブルーバード)
・阿部・金森組(クラウン)
・宮園・石橋組(コンテッサ)
・茂手木・松原組(クラウン)
・山岡・川野組(ヒルマン)
・真下・佐竹組(クラウン)
・松山・柴田組(ブルーバード)
・内藤・今井組(コンテッサ)
・中村・平山組(クラウン)
・山本・土居組(コロナ)
・歌原・高橋組(パプリカ)
・田中・霞田組(コロナ)
・小井土・林組(プリンス)
・井上・小池組(クラウン)
・鈴木・菊田組(フォード)
・野崎・大塚組(クラウン)
・熊川・大倉組(プリンス)
・福井・野村組(コンテッサ)
・中里・中里組(メッサーシユミット)
・岡・佐藤組(プリンス)
・岩田・未積組(クラウン)
・米倉・時田組(ヒルマン)
・矢口・矢口組(セドリック)
・向井・堀田組(ブルーバード)
・田中・岡本組(プリンス)
・井上・渡辺組(ブルーバード)
・吉田・西塚組(コロナ)
・山岡・堤組(ヒルマン)
・森・雲出組(コロナ)
・石沢・大山組(ヒルマン)
山岳ラリーならではのアルペン・ムードも、また楽しさを倍加させるものだ。
カラー・テープを貼りつけたヘッドライト、フェンダーにルーフにと増設したヘッドライト、さては、アレヤコレヤの
計算機からグラフ用紙、時計などをインスタント・テーブルに並べたそのファイトぶり、茶目っ気たっぶりの落書き、
この時こそ鳴らさんといわんばかりの特製?のクラクションなどなど・・・・
各チームそれぞれの勝算のもとにアルペン・ムードもたっぶり。
それに運転技術の自信もたっぶりというツワモノ揃いだけあって、コース案内図もとうとう部分案内だけ。
1日ごとのコース棟略図は消えてしまった。とにかく甲乙なしのモサ揃い。
4日間にわたる高度のラリーにもかかわらず、大学院なみのレベルにしないと、1位が何人出るか分からないほどの
腕の向上ぶりだともいわれる。
わが」国の自動車ラリー競技も、随分向上したものといえよう。(日刊自動車新聞 1963年9月30日)
思わずつられて手を振りたくなる田舎の子ども。妙な紙切れを貼った車が、しかも何十台も通過するとあっては、
珍しさも何倍というもの。「ヤイヤイ……」
と声をだしては手を振り上げ、登校時間を忘れかねないような素朴さに 「やはりアルペン・ラリーはいいものだ」
(日刊自動車新聞 1963年9月30日)
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