1959年(昭和34年)7月10日〜13日
日本アルプスにはまだ道らしき道もないころ、わが国初の本格的山岳ラリーとして盛夏の7月に3泊4日の行程で開催された。
●神宮外苑絵画館前のスタート風景
●コース 東京(神宮外苑)〜東松山〜熊谷〜高崎〜碓氷峠〜軽井沢〜上田〜地蔵峠〜松本〜上高地(第1日日
●距離 約1000km
●概略
●参加台数 35台
【総合順位】
・山口和彦、小林晃一(ダットサン)
●平湯峠では崖崩れ発生
●クラシックカー(オペル・キャブリオレ1932年型)でラリー参加
日本アルペンラリー奮闘記 内田一郎 / JMC graph 1959 Vol.1 No.5 28-31
○ラリーへの誘い○
○フレンチアルペン○
○JMC日本アルぺン○
○いよいよ出発○
○快適な碓氷峠○
○釜トンネルの難所○
○危く上高地に缶詰○
○乗鞍登高中止○
○第三日、レース再開○
○最後のコース○
終りに今回のラリーの主催者と審判団各位に、その周密な計画と実施に当って殆ど不眠不休の指導の労を採られたことに対し厚く敬意と感謝を表したい。
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参加35台(70人)にはオペル、オースチンなど外車の姿が多く見られ、まだ信頼性の点では国産車のレベルが
低かったことをうかがわせた。
参加者の中で唯一の女性チームであるトヨタ自動車販売の遠藤文子さん・沢井政子さんのコンビが注目を
集めていた。
このほか、日野自動車販売の内田一郎・専務、三菱ふそう自動車東京支店バス課長の宮川敬一郎氏(いずれも
当時)など業界関係の参加者が多かったのも特徴だ。
当日早朝、東京の神宮外苑絵画館前をキッカリ午前5時に吉城審判長(当時、自動車技術会常任理事)の
旗ふりで一番車がスタート。NHK、一般紙などマスコミの取材陣も多く、なかには、アサヒグラフの随行取材で
参加した生内玲子さん(現・自動車評論家)の姿も見えた。
ゴール)〜安房峠〜平湯〜高山〜下呂(第2日目ゴール)〜舞台峠〜塞ノ神峠〜坂下〜木曽峠〜飯田峠〜伊那〜
高遠−茅野〜上瀬訪(第3日日ゴール)〜甲府〜大月〜大垂水峠〜八王子〜東京
・第1日日 地蔵峠の頂上付近で大きな崖崩れに出会い、補修工事中。ものすごいぬかるみで各車とも難渋。
松本まで一気に下り、梓川沿いに上る。島々を過ぎたあたりから川面から雲が湧き、細かい雨の中、上高地に
全車無事到着。
・第2日日 昨夜来の雨足は一向に衰えを見せず、釜トンネルが落石のため通行不能とのこと。
おまけに上高地から大正池までの間の沢も水が溢れて通行できない。雨の止み問をねらい作業班がえぐりとられて
道を埋め、水が流れる釜トンネルの落石を始末して全車安房峠を越える。再び雨が降り始め、崖崩れに肝を冷やし
ながら平湯温泉から高山を抜け下呂へ到着した。
・第3日目 スタート時点ではまだ小雨がバラついていたが、やがて雨もやみ、曇天のラリー日和となった。
この雨で路面がしまり、ホコリもたたず走りよくなった。木曽峠途中の第4CPから峠までは先導車につづいて
登り、峠から飯田に下り、高遠を経て杖突峠、諏訪へ。
・第4日目 当日の上諏訪は七夕まつりが行われており、町中に飾られた美しい七夕飾りの下をくぐりぬける
ように出発。当時はまだ路面の悪い甲州街道を一路、東京に向かう。
優勝 古我信生、浜島輝元(スカイライン)
2・川野文夫、川野辰夫(ヒルマン)
3・山本幸次郎、丸井博司(スカイライン)
3・平岡久治、早川 章(トヨペット)
4・赤坂功彦、紋谷孟男(トヨペットマスター)
5・野崎純一郎、大塚和子(トヨペット)
5・菊池富士男、田中 登(オースチン)
6・高野雅夫、相良直樹(トヨペット)
6・石井慶子、山内義男(オースチン)
7・山崎 岨、大野 靖(トヨペット)
8・寺田秀一、植竹信夫(ダットサン)
9・遠藤文子、沢井政子(トヨペット)
10・田中国男、荻原魏(ヒルマン)
・藤井正行、藤井義子(オペル)
・重井源一郎、牧田真雄(ヒルマン)
・宮園禎雄、飯塚 明(ルノー)
・斎藤清秀、斎藤英治(スチユードベーカー)
・大沢広司、大沢利八(トヨペット)
・坂口龍三、西浦周一郎(ダットサン)
・浅葉光雄、浅葉 昇(ダットサン)
・安達正治、安達義明(ルノー)
・西下正也、荻原正民(オースチン)
・桜井徳二、中村日出蔵(トヨペット)
・山家輝夫、浜野 博(タウナス)
・山田直広、山田清子(オペルカピタン)
・内田一郎、内田初枝(ルノー)
・滝口憲亮、滝口光男(ヒルマン)
・上沼清臣、中島忠一(ルノー)
・小林彰太郎、武田秀夫(ルノー)
・宮川敬一郎、伊藤良二(コンサル)
・吉川圭一、須川 績(スカイライン)
・西村時彦、高橋 勝(プジョー)
・半田四郎、久我アキラ(ルノー)
・本間良平、本間哲良(ダットサン)
いくらドライブの好きな僕でも、数十台の車に混じって砂塵を浴びながら走るラリーに参加しようとは実のところ今迄考えてもいなかった。けれども、今回のJMC日本アルペンラリーにはちよっと興味を覚えた。先ずコースが変っていること、乗鞍にはかねがね行って見たいと思っていたからだ。
「行こうじやないか」と女房を誘うと「年がいもない。お止しになつては」と先ず一蹴された。
ラリーは外国では老人夫婦でも参加して楽しむもので、何も若い生きのいいのばかりではない。大学生の長男は行きたがったが、これは未成年で駄目。そこで色々説明して漸く女房を納得させた。
ラリーはスピードレース、ヒルクライム(登坂競技)と違って、スピードだけが重要ではない。主としてあらゆる天候のもとで、一般乗用車の耐久力、性能、旅行適応性及び頑健度の試験が目論まれており、車は最善の状態に整備しなければならない。同時に運転者及び同乗者の運転技能が如何に堅実であるか、時間と距離に対する感覚が正しいかどうかの試験でもある。
参加する車は、時には市販の一般乗用車と改造した二人席スポーツカーとを区別したり、エンジン馬力によって格付けすることもある。競技の方法は大体どの間でも同じでコース途中に多くのコントロール・ポイントが設けられ、競技者はあらかじめ設定された標準時間表に従ってこれを次々にパスする方法である。又しばしば操縦性能、ブレーキ試験、加速試験、スピード試験も行なわれるが、こういう場合は勿論一般交通が遮断される。このようなラリーは欧州各国で四季を通じて行われ、モータースポーツの中では最も一般的である。
本場アルプスで行われるラリーで最も有名なのは1911年に始められたモンテカルロラリーである。これに次ぐものは毎年7月又は8月に行われるフレンチアルペンラリー(FRENCHALPINE RALLY又はRALLYE INTERNATIONAL DES ALPES)である。ジャーナリズムでは右の二つ程有名ではないがリエージュ(べルギー) ローマ往復のアルプス越えラリーは至難中の至難であろう。
フレンチアルペンラリーのコースは、毎年若干の変更はあるが、大体はスケッチマップの通りである。フランス・スイス両国の公道1200マイル(約1900キロ)にわたり、25のアルプスの峠を越え、海抜9000フィートの高度まで登る。
公道といってもコースの大部分は通常自動車の通る道ではない。平均速度は1000ccクラスの車で、フランス領区毎時52キロ、スイス領区で毎時38キロ、大型車では同様に60キロ及び45キロ程度である。
最近ではこの平均速度も上っている。
レースは4ステージで次の如く構成される。
第1ステージ マルセーユ・エクスルパン間MARSEILLES・AIX-LES-BAINS) 480キロ 第2ステージ エクスルパン=ルガーノ間(AIX-LES-BAINS-LUGANO)500キロ
第3ステージ ルガーノ=シャモニー間(LUGANO=CHAMONIX)250キロ
第4ステージ シャモニー=ニース迄(CHAMONIX-NICE)650キロ
各ステージを終った後は、車を駐車場(PARC FERMEに入れる。駐車場は柵に囲まれ、役員によって看守され、次のスタートまでは触れることが許されない。即ち給油、修理、整備は競技時間内で行われなければならないし、競技中スケジュールは一休みする隙もないから、故障のある車では初めから問題にならない。コース途中にヒルクライム競技も折り込まれているが、その地点は予めは知らされない。(ヒルクライムというのは hill climd で坂道、あるいは道もない坂を車でよじのぼる競技。ヨーロッパのアルプス周辺でよく行われる〜編集部注)
近年は自動車製造業者が参加する。この場合は競技の事前調査も会社がするし、会社の競技マネージャーは競技の数週間前にルートの偵察も行なう。自動車メーカーはラリーを考慮して一般乗用車のサスペンション、ブレーキを改良している。
さて、JMC日本アルペンラリーは
第一ステージ 東京−上高地間 330キロ
第二ステージー上高地−下呂
第三ステージー下呂−上諏訪
第四ステージー上諏訪−東京
という四ステージだった。四日問約1000キロの行程である。コースには13の峠を控え、高度は約6000フィートまで登った。〔悪天候のため乗鞍山頂行は残念ながら中止となったので・・・)指示速度最低14最高39.5キロであった。
悪天候のため道路の決壊−橋の流失、崖崩れなどにも遭遇したが、各ステージの終了後車の点検修理給油は自由であったし、自衛隊ジープの無線連絡と日本ラリーの創設者野口正一氏をはじめ、各大学自動車部OBなどのべテランで組織された審判団の道路先行偵察、及び誘導による完壁の御膳立の上でハンドルを握ったのであるから、安全この上なく或いは幼稚園の駈っこを想起したものは僕だけではないだろう。
いよいよ当日、眼覚時計で三時半に起床し、四時半に神宮外苑絵画館前に着いた。既に大部分の車は集結していた。
正五時、ゼッケンナンバー1のダットサンがスタートを切り、1分間隔で次々に発走する。僕のナンバーは25である。スタートラインでカードを貰うと、指定速度は39キロである。
発走直後道を間違う
第一日のコースは軽井沢、上田、松本を経て上高地までである。軽井沢までは何度も行っているし、とにかく60キロ平均で飛ばすことにした。コースの詳細も気にせず、川越街道から中仙道に向って、右に折れた。
前後の競技革もちよっと停止した。いずれ僕の後について来るだろうと思っていたが、後続して来る気配がない。変だなと気が付いてコースを調べると、川越街道を北上して東松山−川越を経由することになっている。
大急ぎで引返したが、仲々追付けない。暁の街道を80キロで約20分飛ばすと、ようやく35号車へ追い付いた。これでヤレヤレとホッと一息して、次々に追越し、ゼッケン23のオペルに追い付く。しばらく後続して見ると、この車は一定速度で悠々と走っている。他の車が追抜こうと停っていようと一向にお構いなし、奥さんがナビゲーターで、余程自信があるらしい運転振りである。これにひきかえ、僕等はコースを間違えたために時間も距離も全く見当がつかない。女房がこの事の後をついて行けばまず大丈夫だというので、しばらくの間後続したが、道は坦々とした補装道路であるし、こんな時にスピードを味あわなければ意味がない。チェックポイントは熊谷か高崎だ。最初のチェックポイントで減点されても、後で調整すれば良いと決めて、我が道を行くことにした。アクセルペダルをグッと踏む。熊谷へ入って中仙道へ出てもチェックポイントは無い。高崎を通過する。今日は白衣観音もハッキリ見えない。依然としてチェックポイントは無い。この分だと碓氷峠の入口だろうと考えた。運転を替らないかと女房に云うと、どうも気分がすぐれないといいだした。これは弱ったことになった。いよいよとなれば、軽井沢で一泊してラリーを断念しようと考え出した。しばらく行くと、ドライブ・インがあった。そこで休憩しようとするとチェックポイントが近くにあるに違いないからと女房は反対。けれども、一休みすれば気分もなおると強引に車からおろした。見るとラリーのマークを付けた車が止っている。腰をおろしてオレンジジュースを飲んでいると次々に競技車が通り過ぎる。止っている車をよく見ると審判団の車だ。こうしてはいられない、と又車を走らせたが、どうも女房は気分がよくないらしい。休みやすみとにかく軽井沢まで行こうじやないかと云うことにした。女房は昨夜から何も食べていないし、僕も朝牛乳を一本飲んだだけだ。
ナビゲーターの女房がグデンとしていては、折角のドライブも少しも興がわかない。埃のたたないところで車をとめて、脇の小道で携行のサンドイッチをバクつく。競技車は次々に通り過ぎていく。例の二三号が通り過ぎると、女房がソワソワし出した。今度は女房が運転する。幾らか元気が出たようだ。
いよいよ碓氷峠が目の前に迫る。薄陽もさして来た。緑の峠をセカンドギヤに入れたままで40キロ乃至50キロでグングン登る。何となく涼しさが増す。
二、三台軽く追い越して、なお一気に登りつめようとした途端、カーブにチェックポイント。
交通巡査に捕ったような気持だ。早速降りてカードにチェックを受ける。九時半を過ぎていた。
カードを見たが減点はわからない。この方法では第一日の最終地点まで成績はわからない訳だ。弱ったなあと考えながら、今度は僕が運転する。指示速度は25キロ。女房は峠でスッカリ気分が良くなった。
やがて小諸を過ぎる。汽車の窓から見る方が美しい。上田の街に入ると道がわからなくなった。前の車も見失なった。コース案内を頼りにやっと抜け出した。スキーで来た昔を思い出す。
地蔵峠はカーブの連続。登ってものぼっても道は延々と上に続く。下りに掛ってスピードを増し、しばらく行くとカーブで第二チェックポイントに会う。
ここで運転を交替、松本市に入る。
松本城は何処か、と見廻したが見当がつかない。それどころか、街を抜け出すのに一苦労、相当時間をついやして島々に着いた。ここからバス道路を梓川に沿って進む。腹が減って克たのでチョコレートを喰べながら、梓川を渡ると第三チェックポイントがあった。トンネルはローギヤで行けといわれた。指定速度は14キロ。再び運転を交替する。
梓川の急流は山へ来たなと感じさせる。霧が深くなり、冷気が身にしみて来た。道はいよいよ狭く、途中バスとスレ違いのため二三度後退させられる。雨雲に閉ざされてアルプスの高峰は全然見えない。中の湯を過ぎると、釜トンネルに来た。ヘッドライトを点けるとトンネル内部は小さな川の流れだ。真中あたリまで進むと数台の先行車が立往生している。後にも車が続いているのでどうにもならない。
水の音を聞きながら、暗い中で立往生の他はない。ややしばらくして、前の車が少しずつ動きはじめた。トンネルの中は凹凸の坂で、ローギヤで進む。トンネルを出るとゼッケン2番の32年型オペル・オールドファッションが右側の僅スレスレに停車していた。この車の御夫妻は実に勇敢だ。出口はスリップしてちょっと手こずった。誰かが押してくれた。底を突きませんでしたかとお互いに聞きあう。
大正池が左側に見えだした。第一日のゴール上高地ホテルに着いたのは五時ちょっと前であった。
第二目、今日は待望の乗鞍登頂である。ハリ切って朝の三時半から支度をしたが、雨は降りしきって風も出て来た。午前四時には全員勢揃いしたが、崖崩れのため出発は出来そうもない。
八時過ぎてから再び食堂に入りこんでコーヒーを飲んだり、ロビーで暖炉をかこんだりしたが、どうも身体を持て余してしまった。ホテルの裏側に勢ぞろいしている車を眺めていると、入れ替り立ち替り誰かしらが車を点検したり車に乗ったり、中には車に乗ったままジツとしている人もいる。どうも、皆おちつかない。競馬がスタートラインに出る前と同じような状態だ。
・・・・・
ようやく十二時にスタートすることになった。出水のため、今日のレースはおぼつかないので、ゼッケンナンバーに関係なく小型車からスタートすることになった。僕は三番目にスタートした。前の車もルノーである。ホテルを出て間もなく、道は水に洗われてところどころ水深五〇センチ位の小川になっている。審判団はびしょ濡れになって落石を除いたり、シャベルで道を直したり、大変な奮闘である。僕もシャベルを持ち出した。こんな状態で全車が通過出来るかと心配になって来た。水に浸るとブレーキが利かなくなるのが坂道では最も恐しい。そればかりではない。ディストリビューターが下方にある車は一度水を被ればそれ切りエンコしてしまう。審判団の誘導で一台ずつ水流を渡った。前のルノーはエンジンを吹かし、水しぶきを上げて、大急ぎで飛び越すように渡った。僕は悠々とローギヤでユックリ渡った。
中には後押しをしてもらったのもあった。とにかく操縦技術も皆優秀だ。大正池畔で全部わたるまでしばらく待つ。雨はまだ止みそうもない。釜トンネルに差しかかると入口の土砂崩れはすでに取り除かれていた。トンネルを出て中の湯までおりて、ここから梓川を右に渡って安房峠に登りはじめた。
崖崩れや水流に洗われた峠の登高は、相当なものだ。道も曲りくねっているし、セカンドギアだけでは仲々いうことをきかない。標高1800bの頂上を越えると、雨も上り、眼下に平湯温泉が見えた。平湯で少憩後、今日のレースは中止することになった。午後四時を過ぎている。
ここで運転を交替し、平湯峠まで登高したが、ガスが発生して来た。アルプスの一角も望見することが出来ない。峠に来るまでにスプリングを打った車、オーバーヒートに悩まされるもの、朝日新聞のジープに索引されるものなど苦難の登坂であった。乗鞍登頂は断念して全車揃って高山に下った。
第三日目、レースを再開。七時にスタートが切られた。雨も晴れそうである。だらだら坂の舞台峠を登って行くと、カーブの第一チェックポイントで速度31キロを指示される。
目的地まではまだ200キロもあるし、峠は三つ四つ越さなければならない。もっとスピードアップしろといっても女房は仲々応じない。坂下町を通過して木曾川に差しかかった時、写真を撮ろうと思ったが、車を止めようとしない。この次のチェックポイントで交替するまで我慢しようと考えていると、目の前にチェックポイントが現われた。ほとんど減点なし。「ホラごらんなさい」と女房がいうのを、無言でハンドル交替。
指示速度は26.5キロになった。しばらく行くとパスコントロールがあつた。道が悪いから気をつけて行って下さいよと注意されたが、なるほど40キロ出すのは仲々骨だ。小さな村の角で危くトラックと鉢合せするところだった。スピードを落さず一気に木曾峠を登ろうとして、しばらく上ると、チェックポイントがあった。僕の後には一台も付いて来ない。一番乗りである。ややしぼらくして到着した車に聞くと、パスコントロールからここまでは時速14キロの指示だという。ほとんど倍の速度で突走ったことになる。
ああまた大量減点かーとガッカリしていると、ここから先は橋の掛替工事があつて、レースは一時中断されることになった。
木曾見峠で休憩中、競技者の中から色々な意見や注文が出て、第二チェックポイントからこの次のチェックポイントまでの時間を通算して(休憩時間を除き)採点することになった。これで僕は大儲けをした。望みなきに非ず。レースが再開され、こんどはユックリ走る。飯田市の手前で第五チェックを受ける。ここまでに時間を調整した。第六チェックポイントで指示速度は39キロになった。ハンドルは僕が握った。何しろ穴だらけの悪路を60キロ位で飛ばさなければならない。伊那節の伊那はどんなところかと、ちよっと町並を見るだけだ。途中踏切りで貨車の入替があり、二度引掛る。遅れを回復しようとするから一層飛ばさなければならない。こんな悪い道を猛烈な勢いで飛ばしたのは生れて初めてだ。左には駒力岳など中央アルプスがわずかに見える。天竜の流れも右手にしばらく続く。スピードを少し落していると、猛烈な勢いでプリンスが追越して行った。砂塵を避けて間隔を置きながら高遠に入ると、パスコントロールがあって、これから22キロになった。今までのところ減点はわずかのはずである。運転を交替する。杖突峠は飛ばしては停め、途中何度も写真を撮った。峠から見た夕陽に映える諏訪の盆地と湖水は、八ヶ岳霧ヶ峰連峰を背に負いシネマスコープ的美観であった。
昨日の疲れは温泉でユックリいやして、宿舎の布半旅館を出たのは、午前六時である。今日の最終コースは甲州街道だ。六時半、31号車からスタートする。指示速度は31キロ、僕がナビゲーターである。韮崎へ入ると24号車がタイヤ交換をしている。お先にと声をかけて速度を調整しながら暫く走ると、橋の手前のカーブに第一チェックポイントがあった。
運転を交替する間に先程の24号が飛び込んで来た。途中で併行しながら「タイヤ交換は三分間でしましたよ」と先へ急いで行った。指定速度28キロを計算しながら甲府を過ぎた。
勝沼のブドー畑は、山沿いに段々の緑のサンシェードを形造り、陽をうけて目もさめるようだ。道は補装となり、有料道路の指示がある。素晴しい道だ。
車を停めて少憩後最高速度でスピードを楽しむ。笠子トンネルで失礼して数台追い抜き、トンネルを出たら第三チェックポイントがあって、しまったと思った。ここから時速31キロで大月、猿橋を過ぎ、大垂水峠を越えて高尾に着く。高尾から29.5キロの速度が指示された。
八王子を過ぎてからの甲州街道ではあらかじめ時間に余裕を持っていないと、指示速度を守ることはむやかしい。府中のパスコントロールまでは白バイを警戒した。最後の高井戸の第五チェックは危くノンストップで行きすぎ、失格するところ、審判団の注意で助けられた。最後のゴールインではコースを間違えて10点も減点された気の毒な人もあった。以上、先ずは無事故で午後二時東京に帰り着いた次第である。
JMC graph 1959 Vol.1 No.5 28-31
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